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桶狭間の戦いは奇襲? 奇襲じゃない? 信長公記から考えてみる

桶狭間の戦いは、戦国時代の合戦として大変有名にもかかわらず、なぞの多い合戦でもあります。

歴史好きの一人として、信長公記を読み、現地を歩きながら、桶狭間の合戦について考えてみました。

 

 

信長公記での信長の発言は奇襲を示唆

▲桶狭間の戦い関係地図 青〇:織田方砦 赤〇:今川方城

 

「敵がかかってきたら引け、退いたら追うのだ」

信長公記では、中島砦から今川本陣へ向けて出撃する際、信長は部下にこのように言って聞かせています。

けっこう入念に言い聞かせていることが信長公記には書かれています。

信長公記に記載されているこの言葉が本当だとしたら、桶狭間の戦いは奇襲作戦であったと言えると思います。

なぜなら、「敵が掛かってきたら引いてしまう」のでは強襲にならないからです。

信長としてはそもそも奇襲を狙っており、相手が崩れたところを追撃するという作戦だったと思われます。

 

なぜ奇襲作戦を立てることができたのか

奇襲作戦を実行するには、敵の本陣がどこかが分かっていなければなりません。

ふつうはわからないような気がしますよね。

一般的に言われている説としては、梁田政綱という人物が、桶狭間に今川義元が着陣しているのを見て、信長に奇襲を提案したと言われています。

しかしながら、桶狭間の今川軍の陣地は、桶狭間の戦いの2日前の5月17日に瀬名氏俊によって設営されており、今川軍の中継地点として、織田信長が最初から知っていた可能性も十分にあると思われます。

4万5千ともいわれる今川軍の大軍勢をとどめる陣地であることを考えると、相当大がかりであり、ある程度監視体制が整っていれば簡単に分かったのではないでしょうか。

つまり、信長は19日の桶狭間の戦い当日に奇襲作戦を立案したのではなく、前日の18日には計画済みであったのではないかとも考えられるのです。

梁田政綱は今川軍の本陣を発見したのではなく、そもそも存在していた今川軍の桶狭間着陣を確認したのが彼だったのではないかと考えています。

 

天候も味方した

しかしながら、奇襲作戦が絶対に成功するものと確信をもって信長は桶狭間の戦いに臨んだわけではないと思われます。

というのも、「敵が掛かってきたら引け」という信長自身の言葉からも分かります。

奇襲失敗の可能性も信長は考えていたわけです。

信長公記には、桶狭間の戦い当日の12時ごろから雹交じりの雨が北西から降ったとされており、北西から桶狭間に向かう織田軍は前方が見えたが、桶狭間から北西方面を監視している今川軍には前方が見えにくかったと書かれています。

おそらく雹交じりの雨では今川軍は監視どころではなかったのではないでしょうか。

 

失敗しても退却できた?

桶狭間の戦いは博打的な要素も多分にある作戦であったと思われます。

敵から発見されないとは限らないわけですし、発見されれば包囲殲滅される可能性も多分にありました。

桶狭間の合戦陣図をみると、全衛の松井宗信・井伊直盛らが桶狭間に引き返してきた場合、織田軍の全滅の可能性も出てきます。

信長はなぜ進撃できたのか?

信長公記には、家老たちの言葉として、以下のような言葉が出てきます。

「中島への道は両側が深田で一騎ずつしか通れません」

桶狭間周辺は湿地帯が多かったようで、道以外のところは基本通れないような場所だったようです。

当時信長の進撃路は道ではなかったようで(東海道は江戸時代に整備されている)、だから信長公記には中島砦から桶狭間に現れるまでの信長の行軍が記録されていないのではないでしょうか。

信長は道ではなくおそらくあぜ道のようなところを通って桶狭間山に向かったのではないでしょうか?

だとすれば大軍に気づかれたとしても一気に包囲される可能性は少なく、速やかに退却すれば犠牲はすくないと考えたのかもしれません。