桶狭間古戦場は2か所あります。
「桶狭間古戦場伝説地」と「桶狭間古戦場」という2か所です。
そもそも戦場というのはお城と違って何かが残るわけではないのですからね。
なので、どっちが本物かはまだ議論が分かれているようなのです。
今回は、信長公記の記載を参考にして、桶狭間古戦場はどちらだったのかについて考えてみたいと思います。
信長公記に記載されている桶狭間
信長公記には、
「敵、今川義元は四万五千の兵を率い、桶狭間山で人馬に休息を与えていた。五月十九日午の刻(正午ごろ)、義元は北西に向かって陣を張り「鷲津・丸根を攻め落とし、満足これにすぎるものはない」と言って謡を三番うたったそうである。」
と記載されています。
簡潔な記載内容ですが、ここから桶狭間古戦場の場所を考えていくと、「愛知県名古屋市緑区桶狭間」が真の桶狭間古戦場であったと類推できます。
桶狭間という地名
名古屋市の方の桶狭間古戦場は、緑区「桶狭間」にあり、豊明市の方の桶狭間古戦場は豊明市「栄町」にあります。
そもそもの地名からして、名古屋市側の方が真の桶狭間古戦場と類推されます。
途中で地名が変わったという考えもありますが、「桶狭間」という地名は室町時代初期から変わっていないそうです。
青〇:織田軍の砦 赤〇:今川軍の城 緑:信長軍の進路
「北西」という方角
上の地図は各城・砦の位置を示したものです。
画面左側にあるのが大高城で、近くに鷲津・丸根の砦があります。
信長公記によると、両砦は明け方から今川軍の攻撃を受け、午前8時前後には陥落していたそうです。
そのため、正午頃には織田軍の拠点は善照寺と中島の2つの砦しかなかったことになります。
今川軍からすれば、中島砦から織田軍が進撃してくることが予想されるため、「北西」を向いて陣を張ったと予想されます。
豊明市の方が桶狭間古戦場だったとすると、方位が微妙にずれるのです。
ちなみに信長公記の作者は「北西」ということを強調しています。
信長が進軍する際に、「北西」から雹が混じった豪雨が降ったため、「北西」を向いた今川軍は前から雨を受け、織田軍は後ろから雨を受ける形になったから、信長軍は敵本陣近くまで気づかれずに済んだとされているからです。
今川義元だとしたらどこに布陣するか
今川義元はかつて暗愚な武将と評されていた時代がありましたが、現在では再評価されて「東海道一の弓取り」とされています。
さて、では、自分が今川義元だったとしたら、どちらに布陣するでしょうか?
織田軍の砦が「丸根」「鷲津」「善照寺」「中島」にあることは今川義元も当然知っていたと考えられます。
自分なら、大高城と鳴海城が見える、緑区の方に陣地を張ります。
豊明市の方だと、大高緑地に阻まれて大高城方面が見えにくいからです。
桶狭間古戦場の現在の様子
桶狭間古戦場は現在は住宅地になっているので、往時を思わせるものはほぼ残っていません。
わずかに記念公園と陣地跡の標が立っているだけです。
▲関ケ原の合戦地図
▲大池から桶狭間方面を望む。じゃっかん山になっているのが分かります。
▲瀬名氏俊陣跡
▲今川義元本陣跡
個人的にはここからバスで「大高」に向かい、「大高城」「丸根砦」「鷲津砦」を見てきた方が面白いとは思います。
いずれも山があるだけですが、それでも当時をしのばせるものがあります。
ほんと、今川軍の城と織田軍の砦が目と鼻の先にあったことが分かり当時の緊張状態がよくわかります。
織田軍の砦も、砦というと小さいものをイメージしがちですが、砦と言いつつ結構大がかりな設備だったことが分かります。
▲大高城から丸根・鷲津砦方面を望む
▲丸根砦方面から大高城を望む