いろはにほへと

元証券アナリストのひとりごと

長久手古戦場と血の池公園

豊臣秀吉と徳川家康が唯一激突した戦い「小牧長久手の戦い」

そのハイライトである「長久手古戦場」に行ってきました。

 

 

長久手の戦いとは?

小牧長久手で対陣した豊臣秀吉と徳川家康でしたが、豊臣方は徳川家康の本拠地を襲撃しようとして動きます。

豊臣秀次隊9千名、堀秀政3千名、池田恒興5千名、森長可3千名からなる別動隊を岡崎に向かわせますが、徳川家康・織田信雄隊9千名は豊臣軍の動きを察知して追跡。

池田恒興・森長可が岩崎城という小城の攻略を始めたことにより豊臣軍は徳川・織田軍に追いつかれてしまいます。

初戦で豊臣秀次軍は徳川家康軍に奇襲を受け敗走、堀秀政軍は徳川軍相手に反撃するものの、徳川家康の旗印を見て撤退します。

池田恒興・森長可隊は敵中に孤立することになります。

▼富士浅間神社に徳川家康本隊が陣取っていたと言われている。北の方が岐阜(豊臣軍の勢力圏)岩崎城のあたりは完全に徳川・織田軍のエリアであり、池田恒興・森長可軍は徳川家康軍を撃破して豊臣軍の勢力圏に戻るしかなかった▼

岩崎城を占領した池田恒興、森長可に徳川軍出現の報が伝わり、両将は引き返しはじめた。そのころ、家康は富士ヶ根より前山に陣を構えた。右翼に家康自身3,300人、左翼には井伊直政勢3,000人、これに織田信雄勢3,000人。一方、引き返して対峙した恒興・森勢は右翼に恒興の嫡男池田元助(之助)、次男・池田輝政勢4,000人、左翼に森勢3,000人、後方に恒興勢2,000人が陣取った[24]

4月9日午前10時ごろ、両軍が激突。戦闘は2時間余り続いた。戦況は一進一退の攻防が続いたが、前線に出て戦っていた森長可が狙撃されて討死して池田・森軍左翼が崩れ始めると、徳川軍優勢となった。池田恒興も自勢の立て直しを図ろうとしたが、永井直勝の槍を受けて討死にした。池田元助も安藤直次に討ち取られ、池田輝政は家臣に父・兄は既に戦場を離脱したと説得され、戦場を離脱した。やがて恒興・森勢は潰滅、合戦は徳川軍の勝利に終わり、追撃したのち小幡城に引きあげた。この日の長久手の戦いにおける羽柴軍の死者2500余人、織田徳川軍の死者590余人という[25][26]。(Wikipediaより)

 

長久手古戦場公園

長久手古戦場公園はリニモの長久手古戦場駅からすぐ近くでした。

歩いて5分くらいです。

 

ここは小牧・長久手の戦いで池田恒興・元助父子が戦死した場所だそうです。

それぞれ少し離れた場所にお墓があります。

 

恒興のお墓は丘の上の方にありました。

元助のお墓は公園の端っこのほうにあります。

池田恒興は清須会議に出席した四重臣の一人で、信長とは乳兄弟、この時生き延びた次男の池田輝政はのちに姫路城を大規模に改修し現在の形としました。

 

血の池公園

古戦場公園から歩いて5分ほどの距離だったので血の池公園にも行ってみました。

血の池公園は毎年長久手の戦いの季節になると池の水が真っ赤になったことから「血の池」と名付けられたそうですが、現在ではそもそも池自体がなくなっています。

現在では児童公園と広場があるだけで、往時を思わせるものは何もありません。

「血の池」という恐ろしい名前だけが今に引き継がれています。

 

鎧掛けの松というのが残っていますが、こちらもすでに三代目だそうです。

長久手の激戦があったとは思えないほどに平和な雰囲気でした。