「すずめの戸締まり」を観ると、ダイジンがかわいそうという感想を持つ人が多いみたいですね。
自分もその一人です。
はじめのうちはダイジンが小憎らしくかんじるので、そのギャップのせいかよけいにラストのダイジンのかわいそう感が強いですね。
観終わるとダイジンがかわいそうになる
はじめてすずめの戸締まりを観終わって思ったのは、ダイジンがかわいそうだなってこと。
ダイジン視点で物語を見ていくと、鈴芽の手で引っこ抜かれて要石から解放され、「うちの子になる」と誘惑されて、その気になって要石のお役目を草太に渡し、無事要石をミミズに打ち込んでハッピーエンドのはずが、鈴芽に「あんたなんか大っ嫌い」と言われ、最後は要石として常世に戻るわけですから、救いのない話に見えますよね。
っていうか、知らんこととはいえ、鈴芽はけっこうひどい奴だって話になる。
ただ、鈴芽は鈴芽で、草太が要石になった後、要石の役目を再び大臣に押し付けようとするんじゃなくて、自らが要石になろうとするわけですから、彼女も別に悪人というわけでもない。
「すずめの戸締まり」のなんというか一種のやるせない後味は、こういう善悪の一言では表せないような世界観に起因しているんでしょうね。
新海誠監督の「君の名は。」「天気の子」「すずめの戸締まり」の三作は、
- 「君の名は」・・・・・・誰も犠牲にならないハッピーエンド
- 「天気の子」・・・・・・世界が犠牲になるハッピーエンド
- 「すずめの戸締まり」・・誰かが犠牲になるハッピーエンド
という結末に変化していて、ある意味もっとも現実的な結末を迎えるお話が、今回の「すずめの戸締まり」という作品のような気がします。
最初からダイジンがかわいそうだと思ってた?
観終わってからも何日かは、「ダイジンがかわいそう」という感想についていろいろ考えていました。
やっぱり自分の中で整理がつかないところがあったんですよね。
で、もう1回映画を観に行きました。
そうしたらあることに気づいたんです。
映画のはじめから、ダイジンがかわいそうって思ってた?
この映画は、ダイジンに再び要石に戻ってもらうために草太と鈴芽はダイジンを追いかけて旅に出る形になってます。
そして、自分はそのことに何の違和感も感じませんでした。
「ダイジンはもともと要石なんだから、元の要石に戻るべきだ」
自分は無意識のうちにそう感じていました。
多くの人もそうんじゃないでしょうか。
物語の中盤で、ダイジンを振り落とそうとしますが思いとどまるシーンがあります。
1回目に観たときはわりと素通りしてましたが、これ、単に鈴芽の優しさとか葛藤を描いた部分じゃないと思うんですよね。
2回目に観たときに気づいたのは、実はこのシーンはすごく象徴的で、鈴芽は草太が要石となったことで悲しみのどん底に突き落とされたと同時に、今までダイジンに再び要石になってもらおうと思っていたということの身勝手さも思い知ったんじゃないかなって思ったんです。
だから鈴芽はダイジンを振り落とせなかった。
そう思えました。
ダイジンはすずめの子にはなれなかった
ラストのシーンでダイジンが要石に戻るシーン。
「ダイジンはすずめの子にはなれなかった」というダイジンに、すずめは「ダイジン、ごめんなさい」と返します。
何度見てもかわいそうなのは変わらないのですが、はじめのやせ細った姿ではなく、ふっくらとしたかわいらしい姿でそう告げるのが、せめてもの救いなんでしょうか。